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映画「セッション」のネタバレありの感想
目次(クリックでワープ)
あらすじ
音楽学校に入学した主人公(アンドリュー)がスパルタ教師(フレッチャー)に罵倒され、殴られながら人間として成長していく話。音楽版ロッキー。
セッション公式ホームページ http://session.gaga.ne.jp/
評価
2015年アカデミー賞編集賞、録音賞、助演男優賞の3部門で受賞。
参考【第87回アカデミー賞】「助演男優賞」はJ・K・シモンズ!『セッション』で鬼教師熱演 | cinemacafe.net
視聴制限
G:年齢を問わず、どなたでもご覧いただけます。
ラストシーンの解釈について
ストーリーがわかりやすい。登場人物も少ないし、途中混乱することが全く無い。
ラストシーンはなぜ解釈が難しいか
ただラストシーンは、視聴者の予想を裏切ってくる。
この映画の終着点を見失い、「どうなるんだ?」というドキドキ感を味う。
加えて、この教師(フレッチャー)は良い人なのか?悪い奴なのか?と混乱するので、
「あーもう訳わかんない!」状態になる。
監督のデイミアン・チャゼルはラストシーンについてコメントしている。
最後のシーンを見た人はその結末に対してちょっと嫌な気持ちになるかもしれない。でも同時に混乱させるような疑問も残すことができたらいいなと願っている。
【ネタバレ注意】監督とキャストが明かした、まだ誰も知らない『セッション』の魅力(2ページ目) | Ciatr[シアター]
ラストシーンについては少し疑問が残るよう、あえて設計して作られていたことを伺い知ることができる。
チャーリーパーカードラム事件
作品の中で教師(フレッチャー)がした話がある。チャーリーパーカードラム事件だ。
チャーリーパーカーは、若かりし頃に大会でミスをしてジョー・ジョーンズという有名なドラマーにシンバルを投げつけられたという話。
チャーリーはその屈辱を晴らすために1年間必至で練習して「バード」と言われる天才ジャズマン、モダンジャズの先駆者になったんだと。
その話の中で教師(フレッチャー)が言ったことは2つ。
- 身を滅ぼす一番危険な言葉は「上出来だ」
- 「次のチャーリー・パーカーは決して挫けない」
この2つが最後のラストシーンを解釈するための材料となる。
このシーンはいわばラストシーン理解のための前フリ。
楽譜を渡さなかったのは復讐のため
フレッチャーはアンドリューに演奏する楽譜を渡さなかった。
この行為はフレッチャーのアンドリューに対する復讐であり、アンドリュー覚醒のために「わざと」やったという解釈もできるが、僕はただの「復讐」だと思う。この大会でミスをすれば一生スカウトされないと言っていたように、ここで失敗させ、アンドリューの音楽人生を奪う計画だった。
フレッチャーは教え子を自殺に追い込むほど行き過ぎた教育方法をしていたが、そのことについて彼は何も反省していなかった。一方で、亡くなった教え子のCDを流して涙を流すなど、音楽の才能が失われたことに対しては悲しんでいた。
つまり、教育者としては最低だが、音楽の才能ある者については心酔する面がある。
以上のことを踏まえると、楽譜を渡さなかったのは復讐のため、結果として、その行為がアンドリュー覚醒の手助けとなったと解釈するのが自然なように思う。
アンドリューはなぜ父親と帰らなかったのか
父親に抱きしめられたアンドリューが聞いた言葉は「もう帰ろう」(日本語吹き替え版)だった。この言葉を聞いた時、アンドリューは「もう帰ろう(上出来だ)」という言葉を聞いたのではないか。
「上出来だ」
言葉になっていないこの言葉をアンドリューが心の耳で聞いた時、フレッチャーが言っていた「身を滅ぼす一番危険な言葉は『上出来だ』」という話が思い浮かんだはず。続けて、「次のチャーリー・パーカーは決して挫けない」という言葉も脳裏に蘇る。
その瞬間アンドリューは踵を返して舞台へと戻り、指揮者フレッチャーに従わず、演奏を始める。ラストシーンの9分19秒のど迫力はこうして生まれた。その時アンドリューは「チャーリーは屈辱に耐え1年間努力したかもしれない、でも俺に1年も必要ない!」と叫んでいたように感じた。ラストシーンは従来の主従関係が逆転、あるいは対等になる大転換場面でもあった。
教師(フレッチャー)は善か悪か
フレッチャーが善か悪かという話は問題にならない。
楽譜を渡さなかったのは悪、戻ってきたアンドリューの圧倒的演奏に飲み込まれ、演奏を支え、舞台そっちのけで二人の世界に没頭し音楽狂として見せた姿は善。
この映画の見せ場は困難に負けないアンドリューの強き心であって、フレッチャーが善か悪かという話は重要でない。善でもあるし悪でもあるというのが僕の解釈。もし、完全な善であると解釈するなら、楽譜を渡さなかったのはわざとと理解することも可能だ。
割り切れないモヤモヤした感じこそが、この映画のリアルだと思う。
編集のうまさ
魅せ方が上手かった。
場面転換、音楽演奏時のカット割り、重要なラストシーンではあえてUPにせず(口元を隠す)視聴者に想像させるなどすごかった。アカデミー賞編集賞を受賞しているのも納得。
よくわからなかった所
主人公の恋人との出会い、別れ、復縁を迫るときの心情が正確にはわからなかった。
出会いは、フレッチャーの音楽団にスカウトされてハッピーだったから流れで。
別れは、もっと音楽に集中したいから(自主練習中に「電話くれ」とかが迷惑)。
復縁は音楽から離れたら恋しくなっていて、再び楽団にスカウトされたから連絡してみた?
という感じなのかな。
「彼がいる」と聞いた時の主人公の心情を察するのが僕は難しかった。
恋人役のメリッサ・ブノワがかわいすぎ。
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泣いて喜びます。
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